荒川さんの公演は自分にはとても新鮮だった。「文学は実学である」というキーワードの日経経済新聞の記事(9/27/2006夕刊)を種に今の文学の位置としかし重要であるという話が披露された。文学はもう瀕死で誰も読んでいないのに文芸誌はそれに無頓着に専門話に深く入り込むようなオタク化するばかり。文学が読まれないとはここ20年の理由なき殺人の蔓延に繋がる想像力の欠如に及んでいるとか。昔は大抵の家庭に文学全集があった。読まなくても香りは人々の中にあった。しかし、最後に出版社から文学全集が完結してから十年以上経つ。とにかく、今は人が人の話に皆関心がない。人の話の最たる物は小説なわけでこれが今読まれるわけはない。さらに詩に関して状況はさらに深刻である。詩は個人的な言語で書いてかまわないものだから散文=小説より理解は難しい。散文は「林の中を三人の村人が歩いていた」とわかりやすいストーリーを作る。散文、小説は人工的だ。詩はもっと人間の認識の近いところの表現である。例えば、「林、三」となる。率直に言って詩はわからない。めんどくさい。私(荒川)に「詩集を出しました。暇があったら読んでください」と渡す人は多いが暇があってもめったに読まない、とのこと。ここで、石原吉郎の「馬と暴動」が朗読される。わかるようでわからない。「わからないでしょう」と荒川さんは我々に言う。昔は、檸檬屋がオープンした頃はそれでもこれらの詩を読んで何かを掴み取ろうという人は大勢いた。わからないのが詩だ。しかし、古本屋で買った50円のこの本(と別の一冊を示す)の無名の兵士の手帳に記された詩「泥濘・田辺利宏」を読み私(荒川)は衝撃を受ける。詩は一対一で時を越えて伝わる。一対多に伝わる小説とは違う。この詩は散文的なまでに平明な文章であるが、この兵士がどういう状況であったか考えると逆に異常な文体であることに驚嘆する。一片の希望もない死の行軍の中にあって地球外からそれを眺めているような記述をするこの人は何なのか。
などなど。詩なんて自分には関係ないようなものだったが、思い直した。
ソンコマージュさんのライブはなんとテーブルを挟んで極々至近で拝聴することができた。ギター一本、喉一つで深く広く熱い世界がやってくる。とても幸せな時間だった。
この項後に追記予定。
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